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ウエディングブログ

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ウエディングプランや、新作ドレス、料理等々、ブランシュネージュからお届けする情報満載です。

3・マダム・トーマスとの出会い

 

パリ、シャルル・ド・ゴール空港。私はついに憧れの地に降り立った。しかし、空は私の前途を予告するかのように、どんよりと厚い雲に覆われていた。

 そして、待っていたのは、最悪のスタートだ。私の荷物がいつまでたっても出て来ないのだ。私は必死で知っている限りの単語を並べて係員に問いただした。どうやら私の荷物は、別の空港に運ばれてしまったらしい。広い空港にポツンと一人で荷物を待ち続けた数時間。日本人はだれ一人としていない。言葉の通じない異国の空港での心細さを、何と表現したら良いのだろう。私は、とてつもなく困難な道を選んでしまったのではないのか。そんな思いが脳裏を駆け巡った。そして、最初に私を出迎えたこのハプニングが、これからのフランスでの苦難の日々を示唆しているように感じた。本当にこれで良かったのだろうか。余りの心細さに、心臓の鼓動が早くなった。何とか荷物を受け取り、モンパルナス駅行きのバスに乗り込んだ。見知らぬ世界へ向かって走るバスの中で、私の身体は、興奮と緊張で次第に熱くなっていった。

 モンパルナスに着いたころには、すでに日はとっぷりと暮れていた。とにかく今夜の宿を見つけなければと、観光案内書を片手にホテルを探した。しかし、不安に震える私を泊めてくれるホテルは全く見つからない。私は初日の宿さえ決めていなかった自分の無謀さに、自分自身であきれた。そして私の夢を馬鹿にした連中が「ほら、見たことか!」とあざけり笑っているかのように感じて、唇をかみ締めた。疲れ果て、途方に暮れてボンヤリと広場に佇んでいた私に、突然、大柄な60歳前後と思われる女性が話し掛けてきた。

 「ホテルを探しているの?夜になるとこの辺は物騒よ」。私はフランス語が分からないはずなのに、なぜか彼女の言葉が理解できた。私はすがる思いで、日本のホテルでアルバイトをしていたこと、そこでフランス料理に魅せられたこと、料理を学ぶために単身フランスへやって来たことなどを、身振り手振りで次々と彼女に伝えた。私は必死だった。フランス料理への思いを話すうち、不安も吹き飛んでいった。そうだ。私は、料理人になるために、ここに来たのだ。「あいつらを見返してやる!」と決意したあの日の強い思いが胸に込み上げてきた。話し終えた私の顔は硬直し、のどはカラカラ、足元はふらつき、立っているのがやっとだった。その女性は、柔らかそうな金髪を揺らし時々うなずきながら、最後まで話を聞いてくれた。どうやら、私のフランス料理に対する熱意が通じたらしい。この女性、マダム・トーマスこそ、後に私の料理人への貴重な第一歩を切り拓いてくれる大恩人となる人である。

 信じられないことに、その晩はマダムが自宅に招いてくれると言う。私は遠慮する余裕もなく、その好意に甘えることにした。マダムの家は、ブルターニュ地方最大の都市、ナントにある。とはいっても、人口24万5千人弱で、現在私が暮らす旭川よりも小さい町だ。モンパルナス駅から急行で3時間、TGV(世界最高速超特急列車)で2時間かかる。列車の窓から見えるのは、どこまでも続く牧草地だった。だんだん寂しくなっていく車窓の景色には、華やかな花の都のおもかげはなかった。

 マダムについて来たことを少し後悔し始めた時、列車はナントに到着した。駅前通りはひっそりとして、カフェの灯りだけが優しく光っていた。大通りに面したマダムの家に着いた時、時計の針は午後8時を大きく回っていた。

 
2・いよいよフランスへ
 
1974年9月。1年後には一旦帰国する約束で、ついに日本を発つ日がやってきた。その日のことは、今でも時折夢に見るほど鮮烈に覚えている。
羽田空港の出発ロビーにいる私は、フランス語は話せない、知り合いもコネもない、包丁の持ち方すら満足に知らない。フランスに着いてからの宿泊先さえ決めてはいなかった。持っているのは、ただただ花の都パリへのあふれるような憧れと、一流の料理人になるという無謀ともいえる情熱、そして、革のボストンバックに入った15万円だけだった。
出国手続きを終え、搭乗。機内のほぼ半数を外国人が占めていた。国際都市といわれる東京でも、一度にこれほど大勢の外国人を見たことがなかった私は、すでに異国の地にでもいるような錯覚に陥り、それだけで気持ちの高ぶりを抑えることができなかった。落ち着かない気持ちのまま、席に着いた。
さあ、いよいよ離陸だ! シートに身を沈めていた私は、飛行機が滑走路を離れた瞬間、突如として恐ろしいばかりの緊張感に襲われた。次第に小さくなっていく東京の街並み。もしかしたら、これが日本の見納めかも知れない。生まれ育ったこの国に、再び帰って来られるのだろうか。このまま単身フランスへ行って本当に良いのか。私はその時、自分が描いている夢が途方もなく大きいことに初めて気が付いた。体が小刻みに震え、身体中からどっと冷や汗が吹き出してきた。
 そんな私をよそに、まるで最後の挨拶をするかのように、機体はゆっくりと大きく旋回した。強い西日が空をオレンジ色に染めていたあの日。ここから私の料理人としての苦難の一歩が始まるのだが、まさに手に汗を握る程緊張していた私は、まだその道の厳しさを知るはずもなかった。
1・夢の始まり ~決意そして旅立ち~
 
「いまに見ていろ!俺の夢を馬鹿にしたやつらを絶対に見返してやる」・・・。胸の中に熱い思いがこみ上げてきた、あの日。あれから23年の歳月が流れたのだ。
私は今、自分のレストランの窓から、神楽岡の豊かな緑とプラタナス並木を見ながら、ふと、ここに至るまでの自分を感慨深く振り返った。
 私の実家は、北海道の深川市で大手の美容室を経営していた。私は両親の愛情を一杯に受け、何の不自由もなく、恵まれ過ぎる程の環境で育った。しかし、東京に強い憧れを持っていた私は、地元の中学を卒業すると、思い切って東京の高校に進学することを決めた。昭和40年当時は、北海道の地方都市から東京の大学へ進学する人は少なかった。ましてや東京の高校へ進学する子どもなど、私の周囲にはほとんどいなかった。そんな時代の中で私の両親は、一人息子の夢を聴き、上京することを許してくれたのだった。
 そして始まった東京での一人暮らし。自ら望んだ生活とはいえ、実家ではいつも大勢の従業員や家族と一緒だったので、日を追うにつれ大都会での一人暮らしは決して甘いものではないことを自覚した。当然のことだが、食事、洗濯、掃除など、生活に関わるすべてを自分でしなければならない。この不自由さに、15歳の私は戸惑った。そこへ、予想を超える寂しさと孤独感が追い打ちをかける。憧れだけではやっていけない孤独な都会の暮らしに耐えられず、情けない話だが、高校2年の時、故郷の高校へ転入したいと実家へ帰ったことがあった。そんな私に、母は、東京へ戻って高校生活を続けるように厳しく諭した。泣く泣く東京へ戻った私。今思うと、あの時故郷に帰ったままだったら、今の私はなかっただろう。あえて私の弱音を受け入れなかった母の厳しい愛情に、今では感謝している。東京に戻った私は、以後、どんなにつらいことがあっても、「負けるもんか」と歯を食いしばって、東京にしがみついた。そして、いつしか、何事も自らの意志で決断し、突き進んでいく強い精神力を身につけていった。今振り返れば、この高校での3年間が今日の私の原動力となり、人格形成の基礎を作ったのではないかと思う。
 「将来の歩む道」、それを決定づけるきっかけは、大学2年の春にやって来た。私は、一流ホテルでホールサービスのアルバイトを始めることになったのである。当時の東京都内のホテルは、今日のようにだれもが気軽に利用できる場所ではなく、外国人と、いわゆる上流階級の人々が集う憧れの空間だった。豪華客船にでも迷い込んだような優雅さがあり、きらびやかな雰囲気が漂う近寄りがたい別世界のようだった。 
ある日のこと、私はルームサービスで料理を運んだ。食べ終わった皿を片付けに伺った時、非常に喜んで「こんなにおいしい料理を食べられて、本当に嬉しい!」と満面に笑みをたたえながら私に言った言葉と、幸せそうなお客様の様子を見て、私自身の心に強く感じるものがあった。
料理が人間をこれほど喜ばせるものならば、単にホテルでサービスをするより、もっとお客様に直接感動を与える仕事をしたい。そう思ったことが、私が料理人を志した原点だった。常日頃、情熱をかけて取り組めることを、自分の一生の仕事にしたいと考えていた私は、どうせなるなら、一流と言われる料理人になりたいと思った。そして、いつしか、フランス料理の本場であるパリで自分のレストランを持ち、日本人の私が作るフランス料理をフランスの人に食べてもらうという夢を描くようになった。そして、修行するなら本場で、と素直な気持ちで考えていた私は、大学を卒業したらフランスで料理の修行をすることを心に決めていた。「フランスで様々な外国の人たちと生活しながら料理の勉強をし、幅広い教養を備えたインテリジェントなコックになる。そして自分の料理でお客様を感動させるんだ」。私は、コック帽をかぶった自分が、まだ見ぬパリの店に立つ姿を想像して、胸をときめかせた。
 大学2年の秋、料理人になると決めてから、友人たちにもそう宣言し続けた。しかし、だれ一人として私の話を本気にしてはくれなかった。それどころか、「何も大学まで出て、コックになることはないだろう。頭がおかしくなったんじゃないの」と笑って取り合おうとしなかった。当時は大卒の人間は多くが大企業のサラリーマンになる時代だった。料理人になるなど、まるで笑えるような話だったのかもしれない。しかし、私の中では、真に好きな事、情熱をかけられる事を一生の仕事として選びたいと思っていたので、いくら馬鹿にされても決心は揺るがなかった。そして、私の夢を馬鹿にした人たちを見返してやるぞと、決意をさらに強くしていった。
しかし、そんな私も、高校、大学と7年間も東京で勉強させてくれた両親に対しては、なかなか言いだすことができずにいた。結局、私が自分の意志を両親に告げたのは、大学4年になってからだった。夏休みに帰省した私は、できるだけ軽い口調で言った。「俺は家を継がないよ」。「ああ」。あっけない程、短い会話だった。しかし、それは決して投げやりの返事ではなく、自分の息子を信じる精一杯の親の気持ちだったのではないだろうか。嬉しかった。ありがたかった。でも、何故か素直に「ありがとう」という言葉が出てこなかった。その時の私は、嬉しい気持ちと、親に対する後ろめたい気持ちが交錯し、形容しがたい複雑な心境だった。
 
皆さんこんにちわ




ブランシュネージュではひな祭り限定ストロベリーロールケーキを販売致します




生地はフワフワ中には沢山のイチゴとカスタードクリーム




もう最高の組み合わせ




この機会にぜひ一度、お買い求めください




1個 ¥1200(サイズ16センチ)




ご予約受付中お問い合わせ先 0164-26-2880




ではでは
皆さんこんにちわ




めっちゃめちゃお久しぶりです・・・




無事、新宿伊勢丹本店でのプリン&生キャラメルの販売が終了致しました




今回販売にあたり沢山の皆様方にお世話になりました。本当に有難うございました




また、お買い上げ頂きましたお客様、本当に有難うございました




なんとリピーターのお客様が結構多かったみたいでさらに感謝




なんとか、大都市”東京”に北海道深川市をアピールできたのではないかと思います




オーナーの一番の望みだった、故郷への恩返しが少しできたのではないかと思っています




感謝




その時の様子(伊勢丹での販売)を友人が写メールして頂いたのでアップします。



本当にみなさんありがとう






ではでは

2010.02.06
雪まつり

みなさんこんにちわ




今日から深川市では冬のイベント”雪まつり”が開催されています




小さい頃はよく行ってたな~~~昔は人間ばんばとかやっていましたよね




でたことあります・・・




子供たちには最高のイベントでは




みなさん雪まつり会場へ行きましょう




お腹がすいたらブランシュネージュへ行きましょう




ではでは
みなさんこんにちわ




今月2月のブランシュネージュセットメニューがお得なんです




なんと無料でデザートをサービス




最高です




デザート内容は日によって変更有です




さ~~今日はどんなデザートが付いてくるか




乞うご期待




ではでは
みなさんこんにちわ




ブランシュネージュとうとう新宿進出 パチパチパチ 




2月17日からの一週間、東京都 新宿 伊勢丹にてプリンを販売致します




ホームページを見てちょっぴり気になっていたお客様どうぞ伊勢丹新宿店に足をお運びください




バイヤー様に感謝し、精一杯がんばります




ではでは  伊勢丹ホームページhttps://www.isetan.co.jp/

2010.01.28
ST VALENTINE

皆さんこんにちわ




ブランシュネージュではバレンタインに向けてスペシャルチョコレートを販売致します




ガトーチョコラ(バレンタインバージョン)¥1200



パレオショコラ¥600



フォンダンショコラ¥500



計3種類をご用意いたしました



この機会に是非ご利用ください




さぁ~~~ブランシュネージュのチョコレートでハートをゲット




ではでは

2010.01.10

みなさんこんにちわ




ブランシュネージュでは来月のバレンタインにむけて




ブランシュネージュオリジナルチョコレートを販売する予定です




詳細はのちほど




是非是非お買い求めください




風邪には注意です




ではでは




 

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