6・飛躍か挫折か?
ナントのホテル「フランテル」を皮切りにスタートした料理人としての私の修行人生。フランス料理界で腕を磨き名を高めていくためには、料理長の推薦を得て、2~3年ごとに働き先を変え、修行を積むのが普通である。
渡仏から5年後、私に大きなチャンスが巡ってきた。1979年度のフランス国家最優秀料理人、フランシス・トワソリエ氏に師事できることになったのだ。しかし、「料理界の暴れん坊」との異名を持つ彼の下では、決して失敗は許されない。
「やめた方がいい」。30代後半でフランス料理人として最高の栄誉を手にしたトワソリエ氏に師事することになった私に、先輩の多くは反対した。が、私に迷いはなかった。渡仏以来、氏の噂はあちらこちらで耳にしていたが、実際どんな人物なのかは師事してみないと分からない。私は、チャンスが巡ってきたと思っていた。飛躍か、挫折か。私の料理人生の賭の扉が、今まさに開こうとしていた。
そして迎えた初出勤の日。緊張感に包まれたまま、朝、8時15分にホテル到着。案内された4階のキッチンでは、既に若い料理人が仕事をしていた。「ボンジュール、ムッシュ」。笑顔で挨拶され、緊張が少し溶けた思いだった。しばらくすると、副料理長のアラン・ブリュネル氏が出勤してきた。「セガワさんですね、お話は聞いております」。ちなみに、彼は、後にエリザベス女王御用達のレストラン「ウストー・ド・ヴォーマニエール」の総料理長に抜擢されることになる人物である。それから1時間半程して、ようやくトワソリエ氏が姿を見せた。「なんて鋭い眼光なのだろう・・」。これが氏に対する第一印象だった。年齢の割に多い白髪が、迫力を増大させている。フランス人としては決して体が大きい方ではないが、全身からみなぎる強烈なパワーに私は圧倒されそうだった。
私の配属先は、「ギャル・ド・マンジェ(コールセクション)」。ここは、肉・魚・野菜などの下処理や全てのオードヴルを調理する部署だ。仕事量が一番多く、毎日の仕込みに追われるが、それだけに学ぶこともたくさんある。スタッフは10名。指揮をとるのは、やがて私の大親友となるマリオ・ヴィーノ氏。彼は、後にリオン市にあるプロのための真空調理専門学校でジョージュ・プラリュー氏の右腕となり、世界に真空調理法を広めた立役者の一人になった。
初日のサービスが始まった。ワクワクしながら、ギャルソン(ボーイ)からのオーダーを待つ。オーダーの読み上げと、料理を出す前の最終チェックは、副料理長の担当だ。彼の一声で各部署が一斉に動きだした。先程まで静寂を装っていたキッチンも、料理人たちの熱気と活気に満ちあふれ、戦場のような凄まじさだ。トワソリエ氏の下に志願してきたスタッフたちは、フランス各地の名のあるホテルやレストランで修行してきた強者ばかりである。どんな部署にいようと、皆、真剣なまなざしで一皿一皿に情熱と誇りを込めて自分の仕事に取り組んでいる。これが、プロフェッショナルなプライドなのか。私は、改めてフランス料理の奥深い伝統と歴史を感じた。
ここで、私はプロの料理人の本当の厳しさを初めて知ることになった。パーフェクトを追求する気迫の人トワソリエ氏に師事しながら、スキあらば自分をアピールして上を狙おうという、覇気に満ちた料理人たち。同僚に同情している余裕など微塵もない。蹴落とすか蹴落とされるか。蹴落とされた者は、自分の力で這い上がるしかない。そんな様子を目の当たりにして、私は気を引き締めていった。まさに、ここは選ばれたプロたちが一流の味を追求し、一流のサービスをお客様に提供する場なのである。
そして、3か月後、私はソース部へ大抜擢された。ソース部は、すべての料理を調理し、ソースを仕上げていく重要なセクションで、いわば、キッチンの花形。誰もがここで働くことを夢見ながら、日々努力しているのである。もちろん私も例外ではなく、大抜擢に天にも上る気持ちだった。その喜びようは、傍目からみても相当なものだっただろう。しかし、ここからが私の本当の意味での試練の幕開けだった。